はてなブックマーク - 教師の体罰を容認すべきか?中高生における体罰の難しさと必要性
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Fist / Mark Ramsay

前橋東署は26日、傷害の疑いで前橋市の市立中学2年の男子生徒(14)を逮捕した。

逮捕容疑は、16日午前11時半ごろ、中学校のグラウンドでサッカーの練習中、顧問の男性教諭(25)の胸ぐらをつかんで転倒させ、首などに軽傷を負わせた疑い。

前橋東署によると、教諭は20日に被害届を提出した。男子生徒は「練習を途中でやめたので頭にきた」と容疑を認めているという。

中2男子が顧問教諭に傷害容疑 サッカー練習中 – MSN産経ニュース

私はこれは、いずれ訪れる必然だと思っていたので、実はあまり驚いていません。

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体罰と暴力

これは完全に私達保護者(正確には私より上の世代の保護者達)の責任です。

本来親が躾けなくてはいけない事を学校に押し付けておきながら、教師から体罰を取り上げてしまった結果です。

はじめに言っておきますが、体罰と暴力は別ものです。大阪のバスケ部の顧問がやった事はあれは体罰ではありません。ただの暴力です。傷害事件です。指導死という言葉もあるようですが、そもそも本来指導に暴力は必要ないと考えます。

保育園児にも簡単に手を出す子がいましたが、その子の原因はまだ小さくて自分の思いや考えを言葉で上手く、まわりに伝えられない事でした。その子はしばらくして、お話がとても上手になり、自分の感情表現を言葉で表現できるようになってから、乱暴な行為が激減しました。

そう、そもそも指導と称して暴力を振るう指導者は、指導者としての資質がないという事なのです。言葉でうまく伝えられない、伝えるだけのスキルを持っていない。相手に自分の考えを理解させる事ができない。

それにイラついて結果、暴力に走る。

あんなものは体罰ではないのです。あれを体罰だと括ってしまうと本来の体罰の是非の議論を歪めてしまう危険なことだと思います。

中高生における体罰の是非

自分は何でも出来る。何にでもなれる。怖いものなんて何もない。教師なんてバカだ。親だってバカだ。いや世の中の大人なんて全員バカばっかりだ。バカの言う事なんて聞いていられるか。俺は俺のやりたい事をやるんだ。

これは最近の子供たちの事ではありません。二十数年前の十代だった当時の私の考えです。

オーバーな表現かもしれませんが、大なり小なり皆こんな感じだったんではないでしょうか。まわりを過小評価し、自分自身だけ根拠もなく過大評価する。世間を大人を舐めてかかっている。

「最近の子供は〜」なんて表現はナンセンスです。十代なんて大昔からこんなもんなんです。無謀で幼稚で暴走している。若さの定義とはまさにそこにあるとさえ思います。

幼児期の体罰がもたらす取り返しのつかない副作用とは? | サムリのブログ

幼児期の体罰には大反対です。
中学生、高校生の思春期に関しては少しだけ、考え方が異なります。それはまた別の機会に書こうと思います。

私は体罰には大反対と書きました。しかしそれは幼児期(私的には小学生まで)に限っての事です。中学生、高校生となると少し考えが違います。

私は中高生においては、状況によっては体罰が必要になる事もあると考えます。

話を戻しますが、このニュースを見て思うのが、警察を介入させるレベルの事か?という事だと思います。

私たちの時代だったら先生が「バカモンが!」とゲンコツかまして終わりの話です。しかしそれを許さなくなったのは、私達保護者です。何かすれば、それをやれ体罰だ、セクハラだと騒ぎ立てて、教師からゲンコツを取り上げてしまったのですから。

その結果がこれです。

畏敬の念

まず、必要なものは「畏敬の念」だと思います。それは親として大人としての威厳です。

私が子供の頃から何も変わっていません。不貞をはたらく親、痴漢をして逮捕される教師、犯罪に手を染める警察官、不正をおこなう政治家。それはほんの一握りかもしれません。でもそういった大人への不信感の積み重ねが、子供たちから畏怖の念を奪ってしまっているのだと思います。

まず私達大人が、襟を正す事。体罰の是非の前に、子供たちに尊敬される生き方を身を持って示す事。大前提として、まずこれがなければ、いけないのです。

自分たちの事を棚に上げて、やれ教師が悪いだの、最近の子供の質が低下しているのだの、体罰がいいだの悪いだの言っても話にならないんです。

体罰は伝家の宝刀

では今後、教師に体罰の権利を与えるべきか?というとそれはちょっと待ったをかけたいと思います。

そもそも躾は親がやるべき事、それを教師に委ねる事が間違いであると思います。今こそ躾は親の責任であるという事を再認識し、その義務を親元に戻す事が必要です。となれば、体罰もまた教師から、親元に戻さないといけません。

体罰とはそもそも伝家の宝刀であるべきだと考えます。

毎日のように乱発した瞬間にそれは暴力に成り下がります。自ら襟を正し、言葉で語り尽くす努力を端折る為のお気軽な道具になってしまっては、畏敬の念など生まれようがありません。あ、こいつ暴力に逃げたなって子供に簡単にバレますよ。

体罰をしろと言っているわけではありません。体罰などせずに、成長してくれればそれに越したことはないのですから。しかしどんなに親が躾をしっかりしたと自負した所で、若者とは正しく暴走するものです。

その暴走を身体を張って止めて、諌める事ができるのか。その最後の手段として体罰というものがあるという事に覚悟をしておくべきだと思うのです。

また体罰には、愛情が必要です。教師に体罰の権利を与えるべきではないのはこの点にあります。

金八先生よろしく、生徒一人ひとりに愛情をもって接する熱血先生という存在は、そうやすやすとそこらへんにゴロゴロいるものではありません。稀有の資質といっていいでしょう。

それに教師が、愛ある拳を伝家の宝刀として抱き続けられるものではないと思うのです。また何を持って愛情がこもっているのかなんて、文科省に定義できるわけがないんです。それは家族の絆の領域なんですから。

それは父親の仕事

なんだよ「愛ある拳」って笑うかもしれません。上手く説明できませんし、定義もできそうにありません。しいていえば、その子の為を心から願う気持でしょうか。

でも薄っぺらい言葉よりも、まっすぐに心が伝わる拳って確かにあるんです。

これは父親の最大の仕事のように思います。特に男の子の場合にいえるのかもしれません。いつでも愛ある拳を伝家の宝刀として忍ばせておく覚悟。その覚悟を持って日々子供たちと接していく。必要なのは体罰そのものではなく、その覚悟かもしれません。

父ちゃんと呼ばせる理由、親父と呼ばれたい理由 | サムリのブログ

「男子家を出ずれば七人の敵あり」と言いますが、その最初の敵は「親父」なのかもしれません。しかしそれは、子供の力量を見極めるものであり、その先の本当の戦うべきものに勝利する為のものです。

親が子供に嫌われることを恐れては、失格です。父親たるもの、その覚悟を持って、最初の敵になりましょう。

2013年2月27日

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自己紹介

サムリ。1974年4月生まれ。東京都出身、埼玉在住。アメコミ映画に、仮面ライダー、ロボットアニメが好きな二児の父でフリーランスやっています。詳しいプロフィールはこちら

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