GWは家族との時間を最優先しつつも、合間に「ウォーキング・デッド シーズン1」をやっと見終えることができた。
ウォーカーと言う名の死神
生きながらウォーカー(ゾンビ)に噛まれてしまったジム。
彼は生きながらにして徐々にウォーカーへと変異していく。ギリギリまで治る希望を持って前進するのか、足掻く事なくウォーカーになる事、すなわち死を受け入れるのか。
その選択肢は、まるで病で余命を宣告された人のようだ。
現実世界にウォーカーは存在しない。しかし私たちも、自らがいつ死ぬのかを誰も知らない。病、事故。ある日突然、無慈悲に訪れる事がある。
死について深く考える時、実はいつでも自分たちの身近に存在する事に気づかされる。そうだ。ウォーカーとは、私達にとっての死そのもの、死が具現化した姿に他ならない。
口に出してはいけない事
一人、また一人とウォーカーに襲われていく中、僅かな情報を頼りに主人公リック達一行は、CDC(疾病対策センター)へ向かう。
外界から完全にシャットアウトされてCDCの中で一行は一時の平穏を得る。久しぶりの酒を飲み、リックは思わず本音を漏らす。
実は彼はすでに心の中では絶望していた。だが妻と子供の存在が、絶望を口にし、全てを諦める事を許さなかった。
私は長渕剛の「シリアス」という歌を思い出した。
※最近は歌詞を引用するだけでもJASRACに訴えられるという噂もあるので、リンクだけ貼っておく事にする。
順風満帆な時はいい。しかし道に迷い、先が見えない状況の中においては、私が家族を守るのだという使命感、そして守らないといけないのだという責任感。それは、大きな重圧に変わる。
弱音を吐くことを許されない状況。口に出してはいけない事。口に出したくなる自分の中の弱さ。
それは私の中にも少なからず存在する。
守られているのはどっちか?
しかし今のリックの状況に、もしも家族がいなかったらどうなっていただろうか?
おそらく、道中で度々見てきた、世界に絶望し自ら命を断った屍達の一つになっていたのではないだろうか。
そう考えると、リックの絶望をギリギリの所で救っているのは、家族の存在だ。
自分が家族を支え、守っているつもりが、見方を変えると、同時に自分は家族に支えられ、守られている事になる。
私達が背負っているものは、時に重くのしかかりもするが、生きる上でかかさせない希望や救済でもある事に気付かされた。
家庭はリスクか?
結婚や、子供を生み家庭を持つことをリスクであると考え、独身である事をベストと考える若者が少なくないという話を聞く。
そこには経済的な理由もあるだろう。しかし責任という重圧を背負いたくないという思いもあるようだ。
ひとつの見方としては、それは間違っていない。諸手を上げて、結婚や家庭に何のリスクもデメリットもないというつもりはない。
先にも述べたが、私の中にもそれを重圧と感じる瞬間はゼロではないのだから。
でも、決してマイナス面だけではない事は一人の夫として、一人の父親として発信したい。
家族は私を強くしてくれた
独身の頃の私は、何かが欠けていた。言い知れぬ不安や不満、苛立ちを常に抱えながら生活をしていた。
私は自分が嫌いで、自分に自信が持てず、人生を持て余していた。
外面だけは良かったが、一人になった時に、その外面の良さすら嫌悪して落ち込んでいた。
自分を信じられない人間が、他人を信じられるだろうか。人と深く関わる事も、正直上手く出来なかった。
そんな私に、妻と子供たちはある意味では容赦なかった。私の心の中などお構いなしで、私を頼り、信じ、必要としてくれた。
彼らの求めに全身で受け止め応えるという事は、手間がかかるし、時間が奪われ、お金も消費する事になる。
特に妻が病で倒れた時は、妻と子供を支える事だけで精一杯で、自分の事なんて考える余裕もなかった。
たしかにそれが辛いと感じる時もある。
でもそれ以上に、独身の頃に抱いていた陰々滅々としたものから解放されている事に気がついた。
必要とされ、それに応えていく事の積み重ねは、私に自信を与えてくれた。私の中で、欠けていたピースが埋まっていく感覚があった。
大げさかもしれないが、私は人生の価値を彼らからもらい、そして強くしてもらったと感じるのだ。
情けは人の為ならず
人の為に生きる事とは、同時にその人に自分が生かされるという事だと実感している。
人生を算盤ずくで考えるのも良いが、決してそれだけではないという事を声を大にして言いたい。
大いなる責任、大いなる重圧はきっと私達を強くしてくれる為にあるのだろう。
辛いこともある、苦しいこともある。口に出せない事もある。口にだしちゃいけない事もある。
それでもやっぱり家庭を持つという事は素晴らしい事だと私は思う。
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